ep4:"空白の少女" sec-6

その日の帰り道、二人は駅の手前で別れた。 Eva「じゃあね」 Quan「……ああ」 それだけだった。 いつも通り、愛想のない別れ方。また明日、みたいな言葉もない。 でも、明日も当然どこかで顔を合わせるつもりでいた。 Evaは家に着いてからも、夕方の会話を何度か思い返していた。 人間の思考に興味がある。 それが、たぶん自分の将来だと思う。 お前みたいな非合理が、私にとって必要だった。 Quanがあんなふうに、自分の中身をまとめて言葉にするのは珍しかった。 少しだけ気恥ずかしくて、少しだけ可笑しくて、でもかなり嬉しかった。 だから寝る前も、ぼんやり考えていた。 明日、もう少し茶化してやろうか。 いや、あいつ絶対不機嫌になるな。 でも、あそこまで言ったんだから一回くらいは弄ってもいいだろう。 そんな、どうでもいいことを考えていた。 -----------------------------------------  翌朝、いつもの集合場所にQuanはいなかった。 別に毎日一緒に通学するみたいな示し合わせはしていないし、気まぐれで来ない事もある。 昨日言った言葉が急に恥ずかしくなったのか、とか余計な事を考えながらEvaは久しぶりに一人で通学した。 -----------------------------------------  一限が終わる。休み時間になる。 それでもQuanは姿を見せない。なんとなくQuanのいる教室を見に行っても、席は空白になっていた。 単純な欠席か、珍しいなと処理して元の教室に戻ろうとする。 その時、教室の前扉から担任が顔を出した。 教師「Eva、ちょっといいか」 Eva「……はい?」 Evaは小さく眉を寄せて立ち上がった。 廊下に出ると、教師はそのまま少し人気のない階段の踊り場まで歩いた。 そこでようやく足を止める。 叱られる空気ではないし、成績や進路の話とも違う。 もっと別の、妙に慎重な空気だった。 Eva「……何ですか」 教師はすぐに答えなかった。言葉を選んでいるのが分かる。 その一拍が、もう嫌だった。 教師「……昨夜、Quanが事故に遭った」 Evaは一瞬、意味を取れなかった。 Eva「……は?」 教師「交通事故だ」 Eva「何、それ」 教師「帰宅途中らしい。詳しい状況はまだ学校にも全部は入っていない」 Eva「いや、ちょっと待って」 教師「今朝、連絡があった」 Eva「え、待って、何言ってるんですか」 声が、自分でも分かるくらい乾いていた。 昨夜の駅前。別れ際の短い会話。細い背中。白っぽい髪。 それらと「事故」という言葉が、どうしても繋がらない。 教師「……かなりやったらしく、今も意識が戻っていないそうだ」 Eva「……」 教師「病院には搬送されている。容体は……まだ何とも言えない」 その瞬間、頭の中で何かがすっと遠のいた。 音が一枚薄くなる。 廊下の向こうの喧騒も、窓の外の運動部の声も、全部が少し遠くなる。 Evaは教師の顔を見ていた。 見ているのに、うまく焦点が合っていない気がした。 Eva「……冗談、ですよね」 自分で言ってから、それは違うと分かった。 教師がこんなことで冗談を言うわけがない。 教師「冗談じゃない」 静かな声だった。 Evaはそれ以上、何も返せなかった。 昨夜、あんなふうに話したばかりだった。 将来の話をしていた。 夢の話をしていた。 私が決まったら一番に言う、なんて、そんな話までしていた。 それなのに、一晩で。 意味が分からなかった。 Quanなら、今日もいつも通り来るはずだった。 朝から感じの悪い顔をして、昨日の話の続きを少し嫌そうにされるはずだった。 図書室か、空き教室か、どこかでまた会うはずだった。 そこまで考えて、初めて、自分の手が少し震えていることに気づいた。 教師「Eva、大丈夫か」 Eva「……大丈夫じゃ、ないです」 教師「……」 Eva「何で」 Eva「何で、昨日普通だったのに」 教師は答えなかった。 答えられるはずがなかった。 事故に理由なんてない。 少なくとも、納得できる形の理由なんて。 Evaは壁に軽く手をついた。 立っていられないほどではない。 でも、足元の感覚が少しずつ頼りなくなっていく。 教師「今日は、無理そうなら早退してもいい」 Eva「……」 教師「授業に戻るかどうかも、お前が決めていい」 Eva「……分かんないです」 教師「……そうか」 分からない。 本当に、何も分からなかった。 悲しい、より先に、現実感がなかった。 頭が拒否しているのか、言葉だけが上滑りしていく。 Evaは、もう何も言えなかった。 -----------------------------------------  放課後、借りた本を返しに図書室に来るといつもQuanが座っている空席がはっきりと見えた。 ただ一つ椅子が空いているだけなのに、そこだけ輪郭が濃い。 昨日まで当たり前にあったものが、急に切り取られたみたいだった。 隣に座り、参考書を取り出そうとするがページが開かない。 何もできない。 Evaは視線だけを少し横にずらして、Quanのいた場所を見た。 昨夜の声が、頭の中で妙に鮮明に蘇る。 お前みたいな存在がなければ、私はたぶんこの分野に興味を持たなかった。 お前みたいな非合理が、私にとって必要だった。 その言葉が、今になって遅れて胸に落ちてくる。 Evaはようやく、自分が呼吸を浅くしていたことに気づいて、小さく息を吸った。 でもうまく入らない。 笑って返したはずの会話が、突然別のものになってしまった。 昨日まで未来の話だったものが、一晩で途切れるなんて。 目の奥がじわりと熱くなる。でも泣く、という感じでもなかった。 泣けるほど、まだ受け止めきれていない。 ただ呆然としていた。 空席を見て。 昨日までそこにいた人のことを思い出して。 それでも今日ここにいないという事実だけが、何度確認しても現実味を持たない。 昨日と今日では、世界がもう違ってしまっていた。 ----------------------------------------- Quanが眠ったままになってからのEvaは、しばらく壊れたみたいだった。 学校には来るし、成績もいつも通り優秀だ。 けれど、その全部が形だけだった。 視線だけがどこか遠くを見ていて、教師に当てられても反応が半拍遅れる。 休み時間になると、無意識みたいに天井を見つめるだけである。 図書室にも行った。空き教室にも行った。階段の踊り場にも座った。 だが、どこへ行っても、彼女がいない。 あまりに当たり前みたいにそこにいたから、いなくなった後の空白だけが、やけに具体的だった。 誰もいない階段の踊り場に一人座りながら、あの夕暮れの会話だけが何度も何度も頭の中で再生される。 お前がいたから、少しだけ違う方向を見たと言える。 お前みたいな非合理が、私には必要だった。 昨日まで嬉しかった言葉が、自分を嘲笑うかのように刺してくる。 必要だと言ってきた当人は、もう目を開けない。 将来の話をし始めたばかりだった。夢を持ったばかりだった。 それなのに。 Evaは何度も、どうしようもなく腹が立った。 ----------------------------------------- ある日の放課後、Evaは一人で病院の廊下に座っていた。 白い壁。消毒液の匂い。遠くで鳴る電子音。 そういうもの全部が、妙に冷たかった。 自販機のぬるい飲み物を握ったまま、Evaは長いこと動かなかった。 何度考えても、答えは出なかった。 自分は何をするべきなのか。何ができたのか。何をしてやれるのか。 何もない、で終わらせるには、Quanが残した言葉が重すぎた。 自分のような非合理が必要だと、あいつは言った。 あれだけ他人を切り捨てていたくせに、最後にはちゃんとこちらを見て、必要だと認めた。 だったら、そこで止めるわけにはいかない。 無視なんてできない。 なかったことになんてできない。 Evaはそこで、ようやく自分の中にあった言葉をはっきり掴んだ。 医者になる。 昔、進路相談を誤魔化すために雑に口にしただけの言葉。 自分でも笑いそうになるくらい適当だったその進路が、その時初めて意味を持った。 使命感なんて綺麗なものではなかった。 誰かを救いたい、みたいな大層な理想でもない。 もっと個人的で、執拗で、ほとんど執念に近いものだった。 あいつがせっかく持った夢を、こんなところで宙吊りにしたくない。 あんなに無愛想で、感じが悪くて、でも確かに自分を信頼してくれた人間を、ただ眠らせたまま終わらせたくない。 目を覚まさせる。 そのために必要なら、医者になる。 そこまで考えた時、Evaはようやく、胸の奥で何かが定まる感覚を覚えた。 ふわふわしていたものが、一点に落ちる。 曖昧だった未来が、急に細く鋭くなる。 医者になる。 その言葉は、今度は誤魔化しではなかった。 Eva「……夢か」 誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。 こんな形でしか決まらないのか、と自分で思ってやや物悲しくなる。 でも、決まった以上はもう迷わなかった。 -----------------------------------------  その日から、Evaは変わった。 学校では相変わらず目立つ方ではなかったが、教師たちはすぐに異変に気づいた。 授業中の集中力が明らかに違う。提出物の精度が上がる。 模試の判定を見て一喜一憂しない。分からない箇所は即座に潰す。 そして、何より無駄が減った。 友人付き合いも、雑談も、寄り道も、以前よりずっと減った。 笑う回数も減った。 ぼんやり窓の外を見る時間もなくなった。 やるべきことを並べて、片端から潰す。 睡眠時間を削りすぎない範囲で管理し、成績の波を消し、苦手を残さない。 一日の動きにほとんど隙がなくなった。 その姿は、どこか在りし日のQuanに似ていた。 だが、彼女のように感情が消えたわけではなく、むしろ奥底では、ずっと燃えていた。 ----------------------------------------- ある日の進路相談。 担任が少し驚いた顔をしながら告げる。 教師「……以前と比べたら随分はっきりしたな」 Eva「そうですね」 教師「前はもっと曖昧だったろ」 Eva「今は違うので」 教師「何かあったのか」 Eva「ありました」 教師も深くは聞かなかった。 明らかに以前のような気だるさはなく、ただ静かで、冷たく、集中している。 誰かが話しかけても、必要最低限しか返さない。笑うこともあるにはあるが、前よりずっと浅い。 教師「……張り詰めすぎたりしていないか」 Eva「何故そんなことを」 教師「……無理してないか心配で」 Eva「無理してますね。それでもやるしかないので」 教師「……」 その返答が妙に平坦で、教師はそれ以上何も言わなかった。 前なら、だるい、面倒、眠い、と零していただろう。 でも、その程度の感情はもう行動を止める理由にならなかった。 彼女は眠ったままだ。 自分だけが立ち止まって、あの日の会話に浸っているわけにはいかない。 必要だと言われた。 なら、その必要に値する場所まで行く。 それだけだった。 -----------------------------------------  大学入試前日。 冬の空気は乾いていて、病院の白い廊下はそれを更に冷たくしたみたいだった。 ようやく許された面会は、ごく短時間だけ。 状態が安定しているから、ほんの少しなら。そう説明されたけれど、Evaにはその言葉が妙に遠く聞こえた。 病室のドアを開ける。 ベッドの上のQuanは、昔と同じように細かった。 ただ、昔ならこちらを見れば必ず嫌そうな顔をしたはずなのに、今はそれすらない。 眠っている。ずっと、眠ったまま。 Evaはしばらく立ったまま、何も言わなかった。 会えないまま、勝手に時間だけが進んでいた。 その間ずっと、こっちは勉強して、削って、進路を決めて、明日には大学入試だというのに。 当の本人は、何一つ返事をしないままだった Evaは小さく息を吐いて、ベッド脇の椅子に座った。 「……久しぶり」 当然、返事はない。 「まあ、返ってくるとも思ってないけど」 少しだけ口元が動く。 笑ったというより、いつもの調子を無理やり作っただけだった。 「明日、大学入試なんだよね」 静かな病室に、自分の声だけが浮く。 「……学部は医学部。医者を目指す」 彼女は返事をしない。 「……全部お前のせいだよ」 「お前、あの日さ」 「人間の思考がどうとか、認知がどうとか、散々めんどくさいこと言ってきたよな」 「……でも、ちょっと嬉しかった」 その記憶だけが、やけに鮮明だった。 夕暮れの階段。冷たい声。愛想のない顔。 「なのにさ」 「そんなの聞いたあとで、なんで何もなかったような事になっちゃうの」 声が少し掠れた。 Evaは一度だけ俯いて、それからまたQuanを見る。 「最初は、腹が立った」 「意味分かんないし」 「何であんなタイミングで、って」 「やっと何か見つけたみたいな顔してたくせに、その日のうちに全部止まるとか、訳わかんない」 言葉にするたび、胸の奥の鈍いものが少しずつ形になっていく。 「でも、ずっと怒ってるだけでも無理だった」 「お前、あんなに無愛想で、感じ悪くて、口も悪くて」 「他人なんかどうでもいいみたいな顔してたくせに」 「最後には、ちゃんと私を見てたから」 病室の白さが妙に目に痛い。 「必要だって言った」 「私みたいな非合理が必要だったって」 「……そんなこと言われたら、もう逃げられないじゃん」 しばらく、機械の音だけが続いた。 Evaはベッド柵に軽く手を置く。 「私さ、別に立派な人間じゃないし」 「今でも医者になる理由が綺麗だとは思ってない」 「誰かを救いたいとか、そういう綺麗事だけじゃない」 「かなり意地だし、執念だし、半分は八つ当たりみたいなもんだよ。誰のせいなんだか」 小さく息を吐く。 「でも、それでもいいと思ってる」 「お前がせっかく信じたものを、私は無下にしたくなかった」 「お前がせっかく持った夢を、そこで止めたくなかった」 「だから私は、医者になる」 「なって、お前を起こすから」 病室の中で、その言葉だけが不思議なくらいはっきり響いた。 「お前なら、非合理だなって言うだろうな」 「意味のない執着だとか、精度の低い動機だとか、たぶんそういうことも言うでしょ」 少しだけ笑う。 「でも、そういうのを必要だって言ったの、お前だからね」 「絶対に責任取らせるから」 「……起きて」 最後の二文字だけ、少しだけ静かになった。 「起きて、もう一回ちゃんと文句言って」 「私が勝手に医者になろうとしてるのも、今こんなこと喋ってるのも、全部まとめて気持ち悪いって言っていいから」 「だから」 そこで一度、言葉が切れる。 Evaは唇を噛んで、ほんの少しだけ目を伏せた。 泣くつもりはなかった。ここまで来て泣き崩れるのは違うと思っていた。 けれど、声の端だけはどうしても揺れた。 「……置いてくな」 長い沈黙が落ちた。返事は一度もなかった。 それでもEvaは、少しだけ楽になった気がした。 ずっと胸の中で固まっていたものを、ようやくそのまま置けたからかもしれない。 やがて、面会時間の終わりを告げる控えめなノックが入る。 Evaは立ち上がって、ドアの前まで歩きそこで一度だけ振り返る。 「……明日、行ってくる」 「受かるよ、多分」 「お前ほどじゃないけど、ちゃんとやってきたから」 少しだけ間を置く。 「だから、待ってて」 そう決めたEvaの顔は、少しだけ昔のQuanに似ていた。
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