ep4:"空白の少女" sec-5

定期テストの順位が貼り出された日の放課後、校内の空気はいつもよりざわついていた。 いつも通り一位はQuanだった。しかもまた全教科満点。 それ自体はもう半ば恒例のような扱いだったが、だからこそ逆に飲み込めない人間もいる。 生徒A「……毎回毎回、満点ってさすがにおかしくない?」 掲示板の後ろで、誰かがわざと聞こえるような声を出した。 生徒B「分かる。逆に怪しいよね」 生徒A「だよね。見たことある? あの人が授業中ちゃんとノート取ってるとこ」 生徒C「いや、でも頭いいのは本当なんじゃ」 生徒A「いやいや、頭いいで済む点じゃないでしょ。毎回全部だよ?」 Evaは後ろで缶コーヒーを片手にそのやり取りを聞いていた。 面倒な方向に転がってきたな、と。 そしてしばらくもしないうちに当の本人がその場に現れた。 順位を一瞥した後、周囲の空気にもほとんど興味を示さず帰路に向かおうとする。 それを阻むかのように生徒Aが正面に立った。 生徒A「なあ、お前」 Quan「何だ」 生徒A「さすがにさ、不自然すぎない?」 Quan「何が」 生徒A「毎回満点なこと」 Quan「私にとっては自然なことだが」 相変わらずの物言いに対して、理性的に受け止められない生徒Aの顔が赤くなる。 生徒A「そういうとこだって言ってんの!!」 Quan「質問の精度が低い。何を主張したい」 生徒A「だから、不正してるんじゃないかって言ってんの!」 Quan「根拠が無い」 生徒A「根拠って……普通そんな点数にならないでしょ!」 Quan「お前の普通を基準に語ってくるな」 Evaは思わず額を押さえた。こいつは煽っているという自覚がない。 生徒Aももう後に引けなくなっていた。 生徒A「先生に言うから!」 Quan「勝手にしろ」 生徒A「絶対なんかしてるって!」 Quan「証明できるならすればいい」 そこへ、騒ぎを聞きつけた教師が駆け寄ってくる。 教師「何だ、うるさいな」 生徒A「先生! Quanが不正してるかもしれません!」 教師「は?」 生徒A「だって毎回毎回全部満点なんておかしいです!」 教師「……」 教師は露骨に面倒そうな顔をした。Quanは表情一つ変えてない。 教師「Quan、お前はどうなんだ」 Quan「していない」 教師「…まあそうだろうなとは思うが」 生徒A「でも納得いきません!ありえないですよこんなの!!」 Quan「私には関係のない事だ」 Eva(だからさあ……) その場の空気はもう収まりそうになかった。 教師はため息をついて、少し考えた後、いかにも事務的な口調で言った。 教師「分かった分かった。そこまで言うなら、追試を実施する」 生徒A「え」 教師「予備の問題が丁度余っている。Quanが一人で解いて、満点を取れば文句はないな」 生徒A「……」 教師「お前もそれでいいか、Quan」 Quan「どうでもいい」 Eva(よくないけどね) やがてEvaが堪えきれずに割り込む。 Eva「先生。流石にそれは言いがかりつけたもん勝ちじゃないですかね」 教師「ああ分かってる。だが……このまま引っ張る方が面倒になりかねん」 Eva「……こういうところで才能は潰れたりするのかもな」 教師「そう言ってくれるな。お前もこの空気嫌だろ」 Eva「まあそれはそうですけど…」 なんやかんやでQuanと生徒A、Evaを含む野次馬数名が適当な空き教室に向かう。 席に着いたQuanは心底どうでもよさそうにしており、ますます生徒Aの機嫌を損ねていく。 しばらくして、教師が別室から問題用紙を持って戻ってくる。 教師「えっーと、じゃあ今から20分。小テストくらいの分量だから軽く解いてくれ」 Quan「承知した」 Quanは紙を受け取り、ざっと目を通した次の瞬間にはもうペンが走っていた。 一問ごとに詰まる気配が全くなく、目まぐるしい速さでただ処理していく。 人間が問題を解いているというより、解答欄が順に埋まっていく現象を見ているみたいだった。 教室の後ろのギャラリーも流石に黙って見ていられない。 生徒B「……うそでしょ」 生徒A「……」 Eva「はぁ…やめればよかったのに」 10分もかからないうちにペンを置く音が鳴る。 Quan「終わった」 教師「……本当か」 Quan「確認も済んでいる」 教師「……採点する」 教師はその場でざっと採点した。 丸をつける音だけがやけに大きく響いた後、面倒そうな顔で教師が告げる。 教師「……満点だ」 教室「…………」 沈黙のあと、ざわめきが一気に広がった。 今度はさっきとは違う種類のざわめきだった。 引いている、というか、呆れているというか、現実感が追いついていない声。 教師「これでいいな」 生徒A「……」 教師「お前が言い出したんだ。文句はないだろ」 生徒A「でも……でも……」 その「でも」は、もう理屈ではなかった。 生徒Aの顔がぐしゃっと歪む。唇が震えて、目に涙が溜まる。 Evaはこの後の展開が容易に想像できてしまい、教師と同じような面倒そうな顔になっていく。 生徒A「だって、そんなの……」 教師「おい」 生徒A「そんなの、ふざけてる…………なんで…………」 Quan「……?」 ぽろ、と涙が落ちた後、生徒Aはそのまま、子どもみたいに泣き出してしまった。 悔しさなのか、恥ずかしさなのか、ずっと自分の中で膨らませていたものを目の前で完全に潰された反動なのか。 たぶん全部だった。 教師「……今日はもういい。お前、少し落ち着け」 生徒A「っ、ぅ……」 教師「周りも騒ぐな。こいつは俺が何とかするから……お前らは解散でいい」 泣きじゃくる生徒Aと教師が出て行ったあと、みんなQuanをちらちら見ながら、でも話しかけはせず、妙な距離を取って散っていった。 残ったのはEvaとQuanだけ。 Quanはまだ自分の席に座ったまま、さっきの答案を見ている。 いや、答案自体にもう興味はなく、状況そのものを整理している顔だった。 固まっているQuanにEvaが近づき、切り出し始める。 Eva「……大変だったね」 Quan「……理解不能」 Eva「え」 Quan「不正の有無を確認したいなら、追試で証明できた時点で終わりなはず。だが何故泣く必要があったのか」 Eva「あ~~……そこかあ」 Quanは珍しく本気で分からない顔をしている。 怒っているわけでも、勝ち誇っているわけでもない、ただ純粋に、構造が繋がらないという顔。 Quan「誤認していたのは向こう、それを私は訂正した。それで処理終了だ」 Eva「……人間はそんな綺麗に終わらないんだよ」 Quan「?」 Evaは少し考えてから、隣の机に腰を乗せる。 Eva「あの人、たぶん最初から“真実を知りたい”わけじゃなかったんだと思うな」 Quan「……どういうことだ」 Eva「自分が納得できる形で、お前が下にいて欲しかったんじゃないかな」 Quan「何故」 Eva「自分がしんどくなるから」 Quanは露骨に嫌そうな顔をする。 Quan「クソみたいな理屈だな」 Eva「正解」 Quan「自分より優れた個体がいるだけで勝手に消耗して、勝手に疑って、証明されたら今度は泣く?欠陥でしかない」 Eva「そういう人もいるの。それが人間ってもんなのよ」 Quanはようやく答案を見つめるのをやめ、Evaの方を向く。 Quan「理解不能だ」 Eva「まあ、完全には分からなくていいと思うよ。如何にもそういうの苦手そうだし」 Quan「分からないままで対処だけ求められるのが私にとって一番不合理で理不尽と感じることだ」 Eva「それは全くその通りだな」 そこで少しだけ、二人の間に沈黙が落ちる。 夕方の教室はオレンジ色で、空席ばかりが目立つ。騒ぎの後なのに、妙に静かだった。 Quan「……私は、何をすればよかった」 Eva「お?」 Quan「どうすればあの場を切り抜けられたのか」 Eva「うーん、最初から相手にしないのが一番平和だったかも?私ならそうするかも」 Quan「それは無理な事だ。事実に反する発言を放置する理由がない」 Eva「そういうところじゃないかな……」 Evaは軽く笑うが、こういう話題でいつになく真剣なQuanを見て、やがてやや真面目に考え始める。 Eva「……お前さ、大体正しいんだけど、正しいまま踏み抜こうとするからこうなるんだって」 Quan「意味が分からない表現を使うな」 Eva「つまり、お前が殴る気はなくても、相手は殴られたと思っちゃうってこと」 Quan「脆すぎる」 Eva「脆いんだよ。人間ってもんは」 Quanはしばらく黙っていた。 納得していないし、飲み込めてもいないっていつもの仏調面をしている。 でも、前みたいに即座に全部切り捨てる感じでもなかった。 Quan「……面倒だな」 Eva「うん。面倒」 Quan「……学校全体が非合理の集団なのでは」 Eva「それはだいたい合ってるかも」 Quan「お前もその一部だろ」 Eva「まあね。でも今日はわりとお前寄り」 Quan「慰めているつもりか」 Eva「別に。ただ、あれは普通に向こうがダサいって話」 Quan「そうか」 Evaは答案をひらりと持ち上げる。 Eva「しかし満点か。容赦ないね」 Quan「手を抜く理由がどこにある」 Eva「泣かせる気満々ってことじゃん」 Quan「泣くとは思っていなかった」 Eva「そこを勉強するべきなんじゃないのか?」 Quanは本当に分かっていない顔で、わずかに眉を寄せる。 たぶん、今日のこともまた彼女の中では理屈としては整理されるのであろう。 「非合理な劣等感に基づく攻撃」「証明後の情動的崩壊」みたいな、そういう無機質な分類で片付いていく。 でも、なぜそこまで人は自分を守ろうとして、守れなくなると泣くのか。 その芯までは、やっぱりまだ届いていない。 Evaはそれを見て、少しだけため息をついた。 Eva「……まあいいや。今日はもう帰ろ」 Quan「ああ」 Eva「次からは、もうちょい刺し方考えなよ」 Quan「……善処はできない」 Eva「知ってる」 ----------------------------------- それからしばらくもしないうちに、急にEvaの周りは目に見えて忙しくなっていった。 進路希望調査の再提出。模試の結果に対する講評。 担任や進路指導の教師が、何かにつけて声をかけてくる。 しかも、Evaは優秀なくせに進路が曖昧な状態である。 放っておいても勝手にどこかへ行くタイプではなく、放っておくと変なところで立ち止まりそうに見える。 教師からすれば、しつこく口を出したくなる生徒だった。 Eva「はいはい、考えときます」 Eva「まあ……そのうち」 Eva「……まだ決めてないだけです」 最初のうちはそんなふうに、気のない返事で煙に巻く。 でも、同じことが何度も重なると、さすがに削れてくる。 決めていないことを咎められる。 決めようとしても、別にこれだというものは出てこない。 適当に口にした案は、口にした瞬間から現実味を帯びて、自分の首を締める。 医者。研究職。難関大。理系上位学部。向いている、狙える、惜しい、もったいない。 言われるたびに、知らない未来の輪郭だけが勝手に濃くなっていく。 そのくせ、自分の中身はずっとふわふわしたままだった。 ----------------------------------- ある日の放課後。 Evaは図書室の奥の席で、開いた参考書をほとんど読めないまま固まっていた。 ページはめくっているが頭に入っていない。 頬杖をついたまま、視線だけが文字の上を滑る。 普段なら適当に嫌味でも言ってくるはずの相手が向かいに座っているのに、今日はそれすら気にかけるのも面倒だった。 Quanは珍しく本を読む手を止めて、Evaの顔を見ていた。 Quan「お前、最近ひどいな」 Eva「何が」 Quan「反応速度も精度も落ちている。効率が悪い」 Eva「もう嫌味は教師共だけで十分だって」 Quan「事実」 Eva「はいはい」 Evaはページを一枚めくって、それからすぐ閉じた。 Eva「なんかさ、最近ずっとだるい」 Quan「見れば分かることを告げてくるな」 Eva「こういう時は慰めるの」 Quan「慰めを求める相手を間違えてる」 Evaは少しだけ笑うが、笑っただけですぐ机に視線を落とす。 Quan「……進路絡みか」 Eva「……」 Quan「教師共に随分こき下ろされたみたいだな」 Eva「……まぁ」 Quan「語彙が死んでいる」 Eva「死ぬよ。毎日毎日、何になるんだ、何がしたいんだ、将来どうするんだって」 Quan「クソだな」 Eva「うん、クソ」 窓の外では、部活帰りの声が遠く聞こえる。 図書室のこの時間だけは静かだったが、Evaの頭の中は逆にずっと騒がしかった。 Eva「……別に何も考えてないわけじゃないんだけどさ。いや、まあ、かなり考えてない寄りではあるけど」 Quan「前に聞いた」 Eva「でも、考えろって言われると、余計に訳分かんなくなる」 Quan「それも前に聞いた」 Eva「……分かってるならさ、なんかこう、助かること言ってくれないの」 Quan「……また面倒な依頼か」 Quanはそう言って、少し黙った。 いつもならここで「自分で処理しろ」と切って終わる。しかし今日は、そこで会話を切らなかった。 Quan「以前、お前は人間は非合理でできていると言ったな」 Eva「近い事を言ったかな」 Quan「今のお前を見てると、その意味は少し分かる」 Eva「……ふぅん?」 Evaがようやく顔を上げる。 Quan「お前は、まだ確定していない未来に先回りして消耗しているな」 Eva「……」 Quan「しかも、教師の期待とかいう、お前の内部に存在しない評価基準まで抱え込んでいる」 Eva「言い方もっと無いか」 Quan「合ってるだろ」 Eva「まあ……うん」 Quanは相変わらず平坦な声のままだった。 けれど、普段の切り捨てる調子とは少し違い、雑に断じて終わりではなく、妙に考えてから言葉を選んでいる感じがあった。 Quan「非合理的」 Eva「そうだね」 Quan「意味のない先行消耗」 Eva「そうだねえ」 Quan「だが、人間が非合理的であるのなら、お前だけが壊れてるわけじゃない」 Evaは少しだけ瞬く。 Quan「将来像が明確でない人間は少なくない」 Eva「……」 Quan「なのに学校は、答えが出ていない状態を欠陥みたいに扱う」 Eva「うん」 Quan「それは、学校としての精度が低いということだ」 Eva「そこに帰着する?」 思わずツッコミが漏れるが、Quanは明らかに何か言いたい事を持っている。それを戯言で遮るまいと、再び黙る。 Quan「何がしたいか、では広すぎる。何になりたいか、でも雑すぎる。私達の年齢で確定した像を持っていることを前提にする方が異常だろう」 Eva「……」 Quan「だから、お前が今答えを持っていなくても、それは欠陥ではない」 彼女なりに見出した、不器用すぎる答えだった。 だが、彼女が言った事に意味があった。Evaは、しばらくその言葉を救いのように噛みしめていた。 いたのだが。 Quan「あと」 Eva「……え?」 Quan「お前が最近消耗してるのは、見てて鬱陶しい。不愉快」 Eva「台無しにしてくれるじゃないかよ」 Quan「本気で言っている」 Quanは不機嫌そうにしながらも、話をやめなかった。 Quan「だから、少し休め」 Eva「……命令?」 Quan「提案だ。お前は今、明らかに処理能力が落ちてる」 Eva「言い方をな……」 Quan「それに、適当に口にした進路案に自分で縛られすぎだ」 Eva「……」 Quan「医者だろうが何だろうが、今のお前が雑に置いた仮札に過ぎない」 Eva「仮札」 Quan「そうだ。勝手に確定事項みたいな顔をするな」 Eva「……ふふ」 Quan「何だ」 Eva「いや。初めてさ、あんたなりにめちゃくちゃ気を遣ってくれてるんだな、と思って」 Quan「遣ったつもりは無い」 Eva「遣ってるよ。かなり」 Quanは露骨に嫌そうな顔をする。いつも通りに戻ってしまった。 Quan「誤解だ」 Eva「そういうことにしとく」 Quan「訂正しろ」 Eva「でも、ありがと」 その一言だけは、Eva自身も少し驚くくらい素直に出た。 感情に寄り添うような、優しい言葉ではない。慰めとも少し違う。 でも、自分のことをQuanなりのやり方で、理解できる範囲まで咀嚼して不器用に置いてきた言葉だというのは、十分に理解できたからだった。今のEvaにとってはそれがありがたすぎた。 Quan「気持ち悪いな」 Eva「なんかさ、ちょっと楽になった」 Quan「お前が壊れると面倒だからな」 Eva「そこは一貫してるんだ」 Evaは頬杖をついたまま、少しだけ笑ってQuanを見る。 Eva「前はさ。人間なんか欠陥品だって顔してたのにちょっと変わったね」 Quan「今もそう思っているが」 Eva「私も?」 Quan「当然」 Eva「ひど」 Quan「ただ」 Eva「ただ?」 Quan「比較的、観察する価値はあるのかもしれない」 その言い回しに、Evaはまた笑う。 Eva「何それ。遠回しに私の事かなり気に入ってるって事?」 Quan「違う。勝手に都合よく解釈するな、気持ち悪い」 Eva「あはは……でも嬉しかったよ」 Quan「最悪だな」 Quanは呆れた顔でもう本を開き直していた。 Evaも参考書を開き直す。 さっきまでと同じページなのに、今度は少しだけ文字が頭に入ってくる気がした。 ----------------------------------- それからも、二人は変わらずつるんだ。 図書室。空き教室。階段の踊り場。帰り道のコンビニ。 場所はその日によって違ったが、やることはだいたい同じだった。 Evaが適当に話しかける。 Quanが嫌そうに返す。 Evaが笑う。 それでも次の日も、また同じ場所にいる。 そんな日々が繰り返されるうちに、Quanは露骨には言わないものの、少しずつ変わっていくものがあった。 生徒同士の会話を以前より聞いている。 教師の言い回しに対するクラスの反応を観察している。 本屋で参考書の横に並ぶ心理学の入門書を、なぜか手に取るようになった。 Evaは最初、それを見て笑った。 Eva「どうしたのその本。ついに人類嫌いを拗らせて研究でも始めたか」 Quan「違う。構造を確認してるだけだ」 Eva「また言い方がな……それでどう思ったわけ」 Quan「人間は、外から見ると無秩序すぎる」 Eva「うん」 Quan「だが、完全にランダムな存在ではない。一定の歪み方が見られる」 Eva「嫌な言い方だな」 Quan「感情、認知の偏り、他者との関係性、その辺が思考の経路をかなり変える」 Eva「なんかそれっぽい事言うじゃん」 Quan「お前が前から言っていた“非合理”も、ただの欠陥ではなくて、ある程度は説明可能かもしれないな」 Eva「お、今さら私の言ってたことを天才様が理解したって訳か」 Quan「お前の言い方が雑で理解できなかっただけだ」 その頃から、Quanの興味は明らかに変わっていた。 単に「人間はクソだ」で終わらせるのではなく、なぜそうなるのか。何を前提にするとそう歪むのか。どこで感情が介入するのか。 人間に対する嫌悪は残ったままなのに、観察の熱量だけが増えていく。その変化を、Evaは誰より早く見ていた。 ----------------------------------- 放課後の図書室で、Quanが分厚い本を机にどんどん置き始める。 タイトルには、認知、行動、心理、発達、そんな単語が並んでいる。 Eva「……だいぶ来るところまで来たな」 Quan「何が」 Eva「もう半分好きじゃん、その分野」 Quan「好きではない」 Eva「興味はあるんでしょ」 Quan「ある」 Eva「珍しく素直だな」 Quan「事実だからな」 Evaは頬杖をついて、少しだけ笑う。 Eva「最初は“欠陥品の観察”くらいのテンションだったのにな。今や欠陥品に取りつかれているじゃないか」 Quan「今も半分くらいは欠陥品を観察していると思っている」 Eva「半分は違うんだ」 Quan「……」 Quanはそこで少しだけ黙ったあと、ぼそりと言う。 Quan「思っていたより、単純じゃなかった」 Eva「人間が?」 Quan「そうだ。感情が入るせいで汚いし、効率は悪いし、意味不明な判断も多い」 Eva「散々言うじゃないか」 Quan「だが、そのせいで、完全に予測不能にはならない」 Eva「へえ」 Quan「偏りがある。繰り返しがある。似たように傷ついて、似たように誤解して、似たように執着する」 Eva「うん」 Quan「その歪み方に法則があるなら、そこに調べる価値が存在している」 Evaはそこで完全に確信を得た。 これはもう一時的な気まぐれではなく、Quanの中で、興味が輪郭を持ち始めている。 ただ、本人がまだそれを「夢」と呼んでいないだけだった。 ----------------------------------- それから少し経った、秋の終わりの夕方。 授業が終わって、校舎の中はもうだいぶ静かになっていた。 二人は屋上へ続く階段の踊り場に座っていた。 窓の向こうの空は薄いオレンジから青に変わりかけていて、校庭の声ももう遠い。 Evaは紙パックの飲み物を持って膝を抱えている。Quanは隣で珍しく何も読んでいなかった。 それだけで、少し変だなと分かる。 Eva「何」 Quan「何とは」 Eva「今日、なんか言いたいことある顔してる」 Quan「顔で判断するな」 Eva「あるんだ」 少しの沈黙。風が吹いて、窓がかすかに鳴る。 そしてQuanがようやく口を開いた。 Quan「……決めたかもしれない」 Eva「何を」 Quan「将来」 Evaは少しだけ姿勢を正した。 Quanの声はいつも通り平坦だったが、その分だけ本気なのが分かる。 Eva「へえ」 Quan「人間の思考に興味がある。正確には、認知の歪みとか、感情による判断の変化とか、その辺だ」 Eva「うん」 Quan「最初は、単に理解不能だから整理したかっただけだった」 Eva「だったね」 Quan「だが、調べていくと、理解不能なりに構造がある。非合理に見えるものにも、理由がある」 Quan「それを知るのは、思っていたより悪くなかった」 Quanが、自分から将来を決めたと言う。しかもそれが、人間の思考。 以前なら一番馬鹿にしていそうな分野だ。 Evaにはそれがおかしくて、少し嬉しかった。 Eva「……そっか」 それだけ言ってから、ふっと笑う。 Eva「じゃあ私も、夢を持たないといけないな」 Quan「また言い逃れの為のか。お前はすぐそうやって形式に引っ張られる」 Eva「いやいや!隣でこんなにはっきり“これかも”って言われると、ちょっと焦るって」 Quan「焦る必要はないと前伝えただろう」 Eva「そうじゃなくてさ!」 Quanは少しだけ視線を落とし、珍しく言い淀むような間を置く。 言葉を選んでいるのが分かった。 Quan「……お前は」 Eva「うん」 Quan「前から、非合理だったな」 Eva「悪口?」 Quan「最後まで聞け」 Eva「はいはい」 Quanは不機嫌そうに眉を寄せたまま、続ける。 Quan「意味のないところで人に構うし、合理性の低い判断をする」 Quan「感情で動くくせに、それを完全には肯定していない」 Eva「随分ひどい分析だな」 Quan「事実だ」 Eva「はい」 また少し沈黙。 Quan「だが」 Eva「……」 Quan「……お前みたいな非合理が、私には必要だった」 Evaは、今度こそ本当に黙った。 Quanの声は変わらず静かだったが、たぶん今までで一番はっきりしていた。 Quan「最初、私は人間の思考をノイズだと思っていた。理解不能で、効率を乱すだけのものだと」 Quan「でも、お前を見てると、それだけじゃないと分かった」 Eva「……」 Quan「非合理だからこそ見えるものがある」 Quan「非合理だからこそ、人に踏み込める」 Quan「非合理だからこそ、私が見落とすものを拾う」 Eva「……ずいぶん評価してくれるじゃん」 Quan「気持ち悪い受け取り方をするな」 Evaは少し笑ったが、その笑い方はいつもより静かだった。 Quan「……だから、お前みたいな存在がなければ、私はたぶんこの分野に興味を持たなかった」 Eva「……」 Quan「人間の思考を、ただ切り捨てて終わっていた」 Eva「そっか」 Quan「お前がいたから、少しだけ違う方向を見たと言える」 Eva「……うん」 Evaは紙パックを両手で持ったまま、しばらく何も言わなかった。 Quanの言葉はいつも愛想がなくて、装飾もなくて、そのくせたまに妙に深いところへ来る。 たぶん今のも、本人なりにかなり考えて言っている。 その不器用さが分かるから、なおさら効く。 Eva「それ、だいぶ告白っぽいよ」 Quan「違う。やめろ」 Eva「即答!」 Quan「事実の共有だ」 Eva「まあ……そういうことにしといてやろう」 夕暮れはもうほとんど終わっていて、窓の外は青の方が強くなっていた。 Evaは少しだけ息を吐いて、横目でQuanを見る。 Eva「……ありがと」 Quan「何が」 Eva「必要だって言ってくれたこと」 Quan「それ以上でもそれ以下でもない」 Eva「うん」 Quan「お前は雑で、ぶれるし、無駄も多い。挙句ウザいしたまに気持ち悪い」 Eva「後半いらなくない?」 Quan「だが、そのぶん私にない視点を持っている」 Eva「……」 Quan「それは、かなり重要だ」 Evaは苦笑した。 Eva「そこまで言われると、やっぱちょっと頑張って夢探さないと格好つかないな」 Quan「無理に探すな。お前はそういう時、適当に名前のいい職業を口にして自滅する」 Eva「もう経験済だって……まあ、今度は前向きにやれるかもね」 Quan「そうか」 Eva「で、それでも分かんなくなったら?」 Quan「私に聞け。お前よりは整理できる」 Eva「偉そうだな」 Quan「現時点で夢のある私の方が優位だ」 二人の間に、短い沈黙が落ちる。 でも、その沈黙は少し前までとは違っていた。 ただ同じ空間にいる心地よさだけではなく、互いの中に相手がちゃんと食い込んでいる感じがあった。 二人の信頼はもう簡単には崩れないところまで来ていた。 やがてEvaが立ち上がる。Quanもそれに続く。 階段を下りながら、Evaがぽつりと零す。 Eva「しかし、人間の思考かあ」 Quan「何だ」 Eva「昔のあんたに言っても絶対信じないだろうなって」 Quan「今でも半分は信じてない」 Eva「夢持った本人が言うなよ」 Quan「人間は不安定だからな」 Eva「お、いいね。急に人間寄りのこと言うじゃん」 Quan「うるさい」 Evaは笑う。 Quanは不機嫌そうに前を向いたままだったが、否定はしなかった。 夕暮れはもう夜に変わって、校舎の外へ出る頃には二人の影は街灯の下で細く伸びていた。
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